【 春 】




開けっ放しの窓から、やわらかな風が吹き込む。愛らしい色合いの客人をそっと運び、ゆらゆらとただよわせる。
それをのばした手のひらに受け止めて、和泉遥はそっと笑みを浮かべた。

「春ねー…」

新学期を迎え、入学式も過ぎ、学園中の生徒たちは新しい生活に希望を抱え、一様に浮かれ気味だった。普段はクールで通っている遥も、この季節ばかりは少しばかり心が踊る。
髪を撫でる風の道を辿り、窓の外を眺めた。気持ちのいい風だ。揺れる桜も美しい。そんな瞬間がとても幸せだと思った。

――そうきっと。ここがトイレの前でさえなければ、もっと。

「ごっめ〜ん、遥ちゃ〜ん。まったぁ?」
「あ、こらチカ!ハンカチ、ハンカチ!」
水の流れる音の後、騒がしい少女たちの声が響いた。ハンカチで手を拭きながら出てきた千佳子を奈緒が慌てて追いかけてくる。
「大丈夫よ。そんなに慌てなくても」
 その様子に苦笑しながら、遥は右手を緩く握った。
「?遥ちゃん、なに持ってんの?」
小首をかしげつつ、千佳子が尋ねる。ハンカチはしっかりと奈緒が奪い取ったらしい。
「ああ、これは――」
「どぉいた、どいたー!!」
語尾をかき消すかのように、遠くから少年らしき声が響いてきた。同時に、どたどたと荒々しく駆けてくる足音も。
「っ!遥っ!!」
「え?」

叫ぶ、奈緒。振り向く遥。
その視線の先の角から突然現れた、一人の少年。

「げえっ!?」
走り回っていたのであろう勢いそのままで、あっというまに縮まる距離――――
「うわあああ!」
「きゃあっ!?」
どしんという音すらたてて、少年と遥がぶつかり、お互い反対方向にしりもちをついた。
「ははは、遥ちゃ〜ん!?」
「うっわ、痛そー…」
廊下の固さと冷たさがじんじんと伝わる。遥はとっさについた右手に目をやり、その拳が閉じられたままなことを確認してほっとする。
前方に目をやると、ぶつかってきた少年と目があった。
「す、すすすすす、すみませんっ!! 大丈夫ですかっ!?」
ものすごい勢いで謝る少年に、怒りやら何やらを通り越して驚いてしまう。
新入生だろうか。真新しい学ランに、まだまだやんちゃという表現がぴったりな、活発そうな容姿。体格もまだ幼さが残り、身長も遥より低いのではなかろうかと思う。
「え、ええ、まあ……」
「ほんとに、すんませんっ……!」
何をするにも勢いのつくタイプなのか。びよんと飛び跳ねるように起き上がると、少年ははるかの目の前に右手を差し出した。その行動に苦笑しつつ手をとのばそうとしたが、ふと考えて遥は左手で少年の手を掴んだ。
その違和感に気付いてか、奈緒がおやと首をひねったが、少年はそれどころではないらしくただつかんだ手をひっぱりあげるのみだった。
「ありがとう」
「い、いえ。俺が悪いんっすから!」
礼をいう遥に、勢いよく首をふる。
「そうね。廊下は静かに歩いた方がいいと思うわ」
「は、はい! すいませんでした!!」
やはり勢い良く、深々と頭を下げる少年。よほど力が有り余っているらしい。しかし再びあげられた顔に浮かんでいたのは、叱られた子どものようななんとも情けない表情だった。
そんな様子に苦笑しながら、遥はそっと右手を差し出した。
「はい、これ」
「――へっ?」
「手、だしてくれる?」
「え? あ、はい……?」
わけも分からず広げられた少年の手のひらに、ずっと握られたままだった右手の拳をのせる。そっと開かれたその中から出てきたのは、一枚の桜の花びらだった。
「え……あの……?」
「かわいいでしょう? なくさないようにね」
ほうけて見上げてくる少年に、遥はにっこりと笑顔を返した。
目を見開く少年にじゃあねと言い残し、奈緒たちのもとへと戻っていった。
少年は慌てて手のひらを握り、その中に花びらを閉じ込める。つぶれてやしないかと、もう一度開いてそっと中身を確認した。

ほんのりと浮かぶ、春の色。
淡く甘い、夢のような小さなひとひら。

「…………」
桜の花びらと、廊下に消えた背中を見比べながら、少年はしばらくその場に立ち尽くしていた。
にっこりと花開いた、遥の笑顔を思い出しながら……。



「桜も、そろそろ散りはじめたわね……」
先日見た満開の桜を思い出しながら、遥はそっと呟いた。その可憐な姿もみおさめだかと思うと、すこし寂しくなる。ここから見える桜は、本当にすばらしかったのだ。

――そうきっと。
ここがトイレの前でさえなければ、もっと。

「ごっめんね〜遥ちゃん!」
「チカ! ハンカチ持ったまま行かない!」
水の流れる音と少女たちの声。それから遠く響くざわめき。
まあなんにせよ、やっぱり平和だなと思いつつ、遥はいつも通りに苦笑する。
「じゃ、行こうか」
そうしてその場を後にしようとした、そのとき。
「ちょおおおっとまったあああ!」
どたどたという騒がしい足音と、元気に響く少年の声。
反射的に廊下の端に寄った3人の目の前を、勢い付き過ぎた少年が通り過ぎていく。
2メートルほど通り過ぎてからやっと止まると、今度は歩いて遥の目の前までやってきた。
「あら? キミ、この間の……」
「はいっ! この間はすみませんでしたっ! 俺、1年B組の草間俊介って言います!」
「そ、そう……で、何か用?」
やたら元気な少年――俊介に圧倒されつつ、尋ねる遥。
しかしそれを聞いたとたん、俊介の顔が真っ赤に染まった。
(おやーん?)
何ごとかと素早く察した奈緒はにやりと笑みを浮かべる。
千佳子と当の遥は、どうやらまだ分かってないらしくきょとんとしていた。
「あ、あああああ、あの! な、名前を教えてもらえませんかっ!?」
「名前? 私の?」
「はいいっ!」
「遥よ。和泉遥」
「は、遥先輩っすね!」
何となく困惑しつつ答える遥に、それでも嬉しそうに顔を輝かせる俊介。
「じゃあ、遥先輩っ! 俺、あなたの事が好きになりましたっ!!」
「――えっ?」
「えええええ〜??」
元気一杯に告白する俊介。
突然の事に驚く遥とチカ。奈緒は堪えきれずに吹き出した。
それっきり、ゼンマイが切れたかのように黙り込んでしまう俊介。
それをきょとんと見遣る遥に、すごいすごい!と何故か自分がはしゃぐ千佳子。
どうするのだろうかと見守る奈緒たちの前で、遥はにっこりと微笑んでみせた。
「ありがとう。じゃあ、お友達からはじめましょうか?」
「は、はははははいっ! おねがいしますっ!!」
一気にパワー前回になって俊介はがばっと深々頭を下げた。
授業があるからと去っていく姿は、浮かれまくりの笑顔全開。浮かれ過ぎて壁にぶつかると言うお約束の行動まで示してくれた。
それを見送る遥はにこにこと手を振っている。
「……あららー。いいの?遥」
「ふふ。かわいいじゃない?」
尋ねる奈緒に、余裕の笑みを浮かべる遥。

例えるならば。
面白いおもちゃを見つけた、とでも言っているかのような。

「は、遥ちゃん、おっとな〜!」
どこまで本気なのか分からないはるかと、やたらと感心する千佳子。
その二人の隣で、奈緒は苦笑を浮かべ、そっと俊介にエールをおくる。

(……がんばれ、少年……)

ほろりと、涙がこぼれそうになった。




00.00.00