開放感とけだるさを運びゆったりと流れる午後の空気。そこにまざる微かな甘い香りに、良太の鼻がひくりと反応した。昼食後一時間しか経過していなかったが、たった今まで運動していたぶん、きっちりとカロリーも消費されたのだろう。
教室前まで来ると、開かれた廊下側の窓から女子ばかりの室内が見えた。
五時限目の授業はD組と合同で男子が体育、女子が調理実習であったため、他の男子はまだ着替えているか廊下をのんびりと歩いている頃だ。
廊下側、後方の席には見なれた顔が三人揃っていた。机の上では、紙の上に広げられたキツネ色の焼き菓子が香ばしい匂いを漂わせている。
良太はそれに無言で近付き、そのひとつをひょいと摘みあげた。
「――あっ! ちょっと……!」
「イタダキマス」
「食べてから言うんじゃないわよっ」
「腹減ってる所に、食ってくださいと言わんばかりに置いておくのが悪い」
「そんなの屁理屈っ! せめて食べていいかくらい聞きなさいよね〜?」
悪びれない良太に、奈緒は呆れたようにため息をついた。
「細かい事は気にすんな」
さらに遠慮なく手をだす良太を、奈緒は止めようとはしなかった。幼馴染みだけあって、ある意味もう慣れた事なのだろう。
「りょーたくん、チカのチョコチップも食べる〜?」
「サンキュー」
のんきにすすめる千佳子に、やはり遠慮知らずな良太。遥は相変わらずマイペースに自分の分を口に運ぶ。
まわりでは、戻って来た男子が女子に催促したり、逆に女子が楽しそうにあまりを配る光景などが繰り広げられていた。
そんな、平和な空気の中。
「浅川奈緒ーっ! ぬけがけは許さないわよっ!」
ひとりの少女の叫びが響き渡った。
「――は?」
突然の名指しに奈緒がぎょっとして声のした方へと視線を向けると、そこには隣のクラスの斉藤静の姿があった。奈緒らと同じクッキーの包みを手に、なぜか怒りの形相で。
「あれ、斉藤?」
「国枝くんっ。よかったら、コレ……食べて?」
きょとんと振り返った良太へ、静はころりと表情を変えてクッキーの包みを手渡した。小首を傾げてほんのりと頬すら染まっている。
「おお、サンキュー」
「どういたしましてっ」
おそらく何も考えずに受け取ったのであろう良太に極上の笑顔を返すと、今度はちらりと奈緒へ視線を向けて『ふふんっ』と勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
(うわぁ……)
百面相とまではいかないが、よくもまぁここまでころころと態度が変わるものだと感心しつつ、奈緒は顔を引きつらせた。
どうやら良太を好きらしい静は、いつの頃からか奈緒を一方的にライバル視してくるようになった。違うと否定しても聞く耳持たず、挙げ句の果てには良太とは関係の無い所でまで張りあってくる始末で、いいかげんにしてもらいたいと思うもののすでに奈緒にもどうしようもないという現状なのであった。
「じゃあ、遠慮せず……」
わかっているのかいないのか。色気より食い気、とばかりに良太が静のクッキーに手を伸ばす。
「国枝君」
「うん?」
しかしその寸前に名を呼ばれ、良太は反射的に振り向いた。
「はい、あーん」
言われ、条件反射で開かれる口。そこに放り込まれるクッキー。
『あ』
三人の少女の声がハモった。
「ふふ。おいしい?」
「……しまった……」
楽しそうににっこりと笑う遥に、しっかり咀嚼しつつも言葉通りに顔をしかめる良太。
「ちょっと奈緒っ! どういうことよ、アレはーっ!!」
「えぇっ!? あたしに言うっ!?」
「ど、どどどどういうことッスか、遥先輩〜っ!!」
サッシ越しに叫ぶ静。思わず身を引く奈緒。そしてさらに響いた、第三の声。
「あれ〜俊介くんだ〜。やっほー!」
「あ、どーもッス。――って、そうでなくーっ!!」
のんきに手を振る千佳子に律儀に頭を下げてから、俊介はぐるんと遥に向き直った。
「何なんですか誰ッスか、この人はっ! はっ!? ま、ままままさか遥先輩のか、かかか彼氏……!?」
「さぁ、どうかしら?」
「せせせ先輩っ……!! 本当ッスかーっ!?」
ショックからか真っ赤になり目に涙すら浮かべながら俊介が問う。
その言葉に静が素早く反応し奈緒はため息をつき千佳子は顔を輝かせ、良太は信じられないものを見るように顔を引きつらせた。
そしてそんななか、遼はひとり、にっこりと笑顔を浮かべてこう言った。
「冗談よ。だって国枝君の彼女は奈緒だものね?」
『………………』
たっぷりと、数秒間の沈黙。何ごともなかったかのように、遥は緑茶の缶に口を付けた。
「あーなんだ、そうだったんスかぁ〜」
『ちょっと待ったぁ!!』
我に返り、安心したように俊介が言う。それを合図にしたように、奈緒と良太が見事に声をハモらせた。
「だから違うって言ってんだろうがっ!」
「そうやって物事ひっかきまわすの止めなさいってば〜!」
「ふふふ。さすが、息ぴったりね」
「らぶらぶ〜?」
『だから違うっつーのっ!!』
否定しても、ただ笑みを浮かべるだけの遥。ふたりがそういう関係ではないということなど、今さら言うまでもなく遥も知っているはずである。なのにそれでもわざとそんなことを言うのかと問えば、きっと『おもしろいから』などと平然と答えるに違いない。
何を言っても無駄だと悟ってか遥には敵わないと諦めてか、良太はとりあえず否定だけすると早々に次の授業のある教室へと向かってしまった。……逃げた、とも言う。
そして奈緒も、そんな遥の言動にいつもは呆れつつ諦めつつ苦笑でやり過ごすのだが、しかし今回は全力で否定しておかなければならなかった。
なぜならば。
「……ふ、ふ……ふふふふふふふふふ……」
突如聞こえて来た震えまじりの笑い声に、奈緒は慌てて廊下側へと視線をやった。
「ちょっ……静?」
「言ってくれるじゃない、浅川奈緒っ!」
「あたしは何も言ってないし!」
「宣戦布告よっ! 絶対に負けないんだからねっ!!」
「だからそれは違うって言ってるじゃないのよ〜!!」
びしりと人さし指を突き付ける静に、奈緒は幾度くりかえしたかも分からない否定の言葉をまた返した。
なぜこうも、何度言おうと信じてくれないのか。なぜ幼馴染みと言うだけで目の敵にされなければならないのか。
……もはや泣きたくすらなってくる。
「あら。冗談だったんだけど……」
「あっはっは。遥先輩ってばおちゃめッスね〜」
「チカ、どっきどきーっ!」
人の苦労も知らず、背後ではそんなのんきな会話が繰り広げられていた。まわりのクラスメイトも慣れたもので、『あぁ、またか』と思う程度で気にしている者もほとんどいない。
「あぁ……あたしが何したっていうのよぅ……」
机に突っ伏し頭を抱え、奈緒は深くため息をついた。
受難の日々は、続く…………?
05.03.13