サクラ、サク
その一報が届いたのは、まだ新たな季節に届く前。冷たい風から身を護るように、蕾もかたく身を潜めたままの時期だった。
「……あー…頭痛い……」
そう言ってため息を尽き、浅川奈緒はお気に入りの空色のクッションをきつく抱き締めた。円柱型で少し長めのそれは腕にすっぽりとおさまり、大きさも形も奈緒にジャストフィットなのだった。
肩まで伸びた黒髪が、さらりと揺れて薄く影を作り出す。
「なにが?」
ガラスのテーブルに置かれたカップに手をのばしつつ、和泉遥がきょとんと尋ねる。ショートヘアーの大人びたその容姿が、いつもより幼く見えた。
「このカップ、かわいいよねぇ。どこで買ったのぉ?遥ちゃん」
奈緒のセリフを聞いていたのかいないのか。どこか舌足らずな口調で、芹沢千佳子はうれしそうにカップを眺めている。ふわりとした茶色がかった長い髪も、湯気の向こうで楽しげに揺れていた。
「…………」
のんびりと紅茶を飲む遥とマイペースに自分の世界に浸る千佳子。そんな二人を半眼で眺め、奈緒はため息をついた。
「うちの……お兄ちゃんがさ……」
とりあえず勝手に喋りはじめる。そうでもしないと、この二人がまともに話を聞いてくれるわけが無かった。いや、千佳子はともかく、遥はちゃんと聞いてくれるタイプなのだが……奈緒の態度とここ最近の出来事から、おおよその事は察してしまっているのだろう。しかも話しているのが奈緒の家ではなく遥の家であると言うことから、さらにその確信は強まっているはずであった。
「司さん?確か、大学合格したんだよね?」
「え〜!?すごぉ〜い!さすが司お兄ちゃん!」
「うん、ありがと。それはそれで、凄くいいことだったんだけどさぁ……」
その割にはどこか困ったような表情で、クッションを今度は両手でひねっている。……もちろん、それも遥のものだ。
「なんか、行きたく無いとか駄々こねはじめちゃって」
「あー!わかったぁ!それって、奈緒ちゃんがいないからでしょぉ?」
「あー…なるほど……」
奈緒の言葉に、何故か嬉しそうに千佳子は手をたたき、遥は苦笑した。
奈緒の兄である司は、知る人ぞ知るシスコンなのであった。
普段は真面目で人柄もよく、近所や学校での評判も言い好青年なのだが、奈緒に大してはやたらと甘く、過保護であった。
さらには、奈緒に近付く男子たちにも、やたらと厳しい。ただ一緒に話していただけの男子生徒を、自分の視界から消えるまで威嚇し続けたり、一緒に遊びに行ったとなればその人の事をとことんまで調べあげては『こんなやつは奈緒には合わない』などと説得をし始める始末だ。ただのクラスメイトだからと説明しても、なかなか納得してくれなかったりもするのだった。
普段は、優しく良い兄なのだが。そういうところは、さすがに奈緒も辟易していた。
「そうよね。去年も凄かったものね」
「……あははははー…」
しみじみと言われては、乾いた笑いを浮かべるしか無い。
「でもまあ……司さんも馬鹿じゃ無いんだし。学校が始まれば、ちゃんと行くでしょ」
「うう……身も蓋も無いなぁ……」
「そういうもんでしょ?」
あっさりと返され、奈緒はクッションに突っ伏した。
最初から、彼女らに言ってどうにかなるものでも無かったし、さらに言えば……『いつものこと』だったりもする。奈緒にしたって、ただ愚痴りたかっただけなのだろう。
「でもさ、でもさ!チカたちも、明日っから二年生だよ!楽しみじゃない?」
ころころと鳴る鈴の音のような愛らしい声音に、その場の空気も明るさを取り戻した。千佳子独特のふんわりとした雰囲気は、その場にいる者たちをあっというまに和ませる。それは彼女の何よりの特技であると、奈緒は常々思う。
「そうね。私たちも、後輩ができるのよね」
「うわーそっか、『先輩』になるんだ!」
「えっへへへー。楽しみだよねぇ〜!」
明日から、新しい日々が始まる。細かいことに、うじうじと悩んでいるヒマは無い。きっと何か楽しいことが奈緒たちをまっているに違いないのだから。
たとえ素通りされそうになったって、必ず捕まえてみせる。
「じゃあ、じゃあ〜カンパイしよ〜よぉ!」
「え?紅茶で?」
「いーの!大事なのは、気持ちなのぉ!」
「……そっか。そうだよね」
千佳子の提案に、三人のカップに新しく紅茶が入れられる。沸き上がる湯気が、どこまでも高くのぼっていった。
その先は、見えないけれど。
見えてしまっても、面白くは無い。
「それじゃぁ……」
『カンパーイ!!』
カップのぶつかりあう音と、少女たちの楽し気な声が響く。
桜はもう、目覚めはじめていた。
03.08.02