―――― その雫が地面に落ちた時、全ては変わった ――――
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
変わり果てた目の前の光景をぼんやりと眺めながら、少女は答えの返らぬ問いを繰り返していた。
ここは、強い生命力に溢れた、美しい森の中だった。
太陽の光にきらめく緑、全てを優しく包み込む大地。……彼女がこの森にはいった時は雨が降っていたのだが、しかしこれほどまでの惨状など、欠片も見当たらなかったはずだ。
なのに今、目の前に広がるのは。
黒く焼けこげ、炭と化した木々。命の輝きが失われ、沈黙する大地。そしてそこに転がる、無数の傷付いた人々。
美しかった森は、今は殺戮と恐怖に悲鳴を上げているようだった。
……ああ。どうしてこんなことになってしまったのだろう……。
両手で顔を覆って嘆くしかできない少女の脳裏に蘇るのは、ほんの数時間前に起きた惨劇――――
――彼女は、走っていた。
地を蹴る足が泥を跳ねようとも、羽織ったローブを風に飛ばされそうになったとしても。それでも、進む足を止めようとはしなかった。少しでも多く進もうと、少しでも遠くへ向かおうとただただ必死に駆け抜ける。
風にあおられ、被っていたフードが背に落ちた。大粒の雫が肌を直撃し、強風で長い栗色の髪が後方へと引っ張られる。少し腕を伸ばせばもう一度被り直すこともできるだろうに、彼女はローブの下に抱きこんだ荷物から手を離すことはなかった。
それにも耐え抜き、半ば無理矢理に進められた足で、彼女はなんとか風雨を凌げる場所へと辿り着いた。
町を抜けた森の中、岩山に作られた自然の洞くつ。その奥へ奥へと入り込み、彼女はやっと一息を付いた。
「ここまでくれば……」
狭い岩壁に少女の声が反響する。胸に抱いた荷物をぎゅっと抱え直してから小さく魔法の呪文を唱えると、言霊に応えて淡い光が出現し、ほんのりと少女の顔を映し出した。
年の頃は17、8。栗色の髪を高い位置でひとつに縛り、額にはバンダナ。耳や首にはシンプルだが細かい装飾と特殊な石のあしらわれたアクセサリー。着込んだ長く分厚いローブは雨の中を駆け抜けたせいか、全身びっしょりと濡れていた。
荷物を落とさないようにゆっくりとしゃがみ込み、やっと離した片手で顔に張り付いた髪の毛を払う。そのままローブをそっとはずし、何とか守り抜いた腕の中の荷物に目をやった。
幾重にも布に包まれ、両腕の中で静かに沈黙を保つ塊。
これの為に、幾人もの人々と争う羽目になってしまった。自分は善意で行っているつもりだったのに、誰もが少女に敵対した。
そう、親友だと思っていた黒髪の少女でさえ、敵に回ってしまったのだった。
もう誰も頼れない。信じられるのは、自分の力のみ。
一刻も早くこれをある場所に納めないと、本当に大変なことになってしまう。他の誰かに渡すわけにはいかないのだ。
いつまでも同じ場所にはいられない。少女は意を決し、洞くつの入り口へと戻って行った。
「っ!!」
しかし、その目に映ったものは。
洞くつを取り囲み、少女に鋭い視線を送る男たちの姿だった。
「ここまできたのに……!」
小さく呟き、ぎりりと奥歯を噛み締める。
もう、雨は上がっていた。男たちは飛びかかってくる様子もなく、ただ少女を威嚇するかのように睨み付けているだけだった。
そして、そのさらに後方に……昨日まで親友と呼んでいた少女の姿もあった。やはり彼女から向けられてくるのも、冷たい目線。本気で敵対するつもりなのだと気付いて、少し胸が痛んだ。
「さあ……その荷物を、渡してもらおうか」
「こっちだって、荒っぽく扱いたくはねぇ。大人しく、渡すんだ」
無造作に手を差し伸べる男たち。一見敵意が無さそうに見えはするが、しかし近付いたとたんに何をされるか分かったものではない。
「嫌よ……! 誰が渡すもんですかっ……!」
これは。絶対に、死守しなければならないのだ。
「ちっ、仕方ねえ!」
吐き捨て、じりじりと近付く男たち。中には、手に縄を持った者までいる。あれで少女を捕まえるつもりらしい。
「それっ! かかれぇっ!!」
一人の合図に、男たちが一斉に飛びかかってきた。慌てて避けるような愚行は犯さない。しっかりと男たちの動きを見て、次の行動を予測する。手薄な箇所を発見すると、素早く走り込んで包囲網をくぐり抜けた。
男たちは向きを変え、さらに襲い掛かってくる。
ちらりと投げた視線の先で、黒髪の少女の手で鞭がしなっていた。彼女の最も得意とする武器だ。それを自分に向けるとは……それだけ、本気だと言うことなのだろう。
(くっ……!)
ならば、こちらも手を抜くことはできない。例え、それが親友相手であるとしても……。
こちらの戦力は魔法だ。小さく、そして素早く呪文を唱える。次々に吹き飛ばされ、倒れゆく人々。こちらの力を知っている為、迂闊には近付いてこなかった少女ですら、焦りの色を浮かべている。
できることなら傷つけたくは無いが、仕方が無い。なんとしてでも護らなければ。
自分には、何があっても譲れないものがあるのだから。
少し大きめの魔法をかけようとして、異変に気付く。
わずかに熱を持った腕の中の荷物。目をやった先にあったのは、小さな雨粒のしみ。動いているうちに、どこからか水滴が飛んできたのだろう。まだ残っていた人々がそれに気が付いて慌てて遠のいていった。
さらに熱が増し、微かな振動を伴う。
危険だ、と告げる本能。彼女は思わず荷物を放り投げた。
高く弧を描く物体。ゆっくりと落下し、そして地面へと舞い降りた。
その、瞬間。
真夏の太陽のごとく、強く激しく放たれる光。閉じたまぶたからでも感じられる強烈な白。鼓膜を破る大音響。その身を吹き飛ばすほどの突風。
そして――――
気が付いた彼女の目の前に広がっていたのは、黒く無惨に焼けこげた、かつて森だと言われていた場所。
瑞々しかった木々は黒い炭となり、命溢れる大地は煙を吐きながらぶすぶすと燻っていた。そしてあちこちに倒れる人々の姿。服が、髪が焼けこげ、だらりと放り出された手足……。
――ああ、こんなはずでは無かったのに……! 少女は力無くその場にへたり込み、呆然とその光景に見入っていた。
こんなはずじゃなかった。こんなことを望んでいたわけでもなかった。
ただ自分は、自分の望みを叶えようと思っただけだ。しかもそれも、同時に人の為になることだった。
そうだと、信じていたのに。そのはずだったのに……!
「どうして……こんな……」
掠れた声がもれる。自身もやけどや裂傷を負い、声をだすとのどがずきりと痛んだ。
「――どうして、じゃ、なあいっ!!」
そこへ唐突にかけられた声。ばしりという音とともに頭に走る衝撃。
驚いて振り向くと、そこには怒りもあらわにして立つ、黒髪の少女の姿があった。いつもの赤いチャイナ服も自慢の長い髪も汚れてはいたが、他の者ほどのダメージは受けていないようだ。
「だーっからあんなに、危険だから止めなさいって言ったじゃないのよっ! どーすんのよ、この始末っ!」
「一人だけ避難したわけね、エナ……」
「あんたがあれを手放すなんて、爆発寸前でしかないでしょ?クレス」
たたかれた頭をさすりながら半眼で言う少女――クレスに、黒髪の少女――エナは呆れ顔でそう返した。
「危険物の運搬なんて軽々しく引き受けるからこういうことになるのよっ!」
――とある村で頼まれた、起爆物質の運搬の仕事。それは専門的知識を持ち、かつ慎重に事を運ばねばならないものだった為、断ったはずだったのだが……。
「だって、すっごい条件よかったじゃない? 運ぶだけで大金ボロもうけよ?」
そんなことを言って一人勝手に引き受けてしまった結果が、これである。せっかく止めに来たエナや村人の苦労すらも、水の泡となってしまった。
「条件良いのは、それだけ危険だってことでしょうっ! ほんっと、お金のことになると目の色変わるんだから、あんたって奴はっ!」
「だ、だって、そろそろ路銀も尽きかけてたし、この仕事受けなきゃこれから何日も野宿っていう大変な事体に陥っちゃうのよ? それでも良かったわけ!?」
「だからってなんでも引きうけりゃいいってもんでも無いでしょーがっ!! あれが水にも反応するってことすら、知らなかったくせにっ」
再び、ばしりとクレスの頭に容赦のない突っ込みが落とされた。長い付き合いだ。もちろん、手加減は無い。
「とりあえず……あんたがきっちり弁償しなさいよねっ!」
「ええっ!? なんでっ」
「旅費の他に、しっかり溜め込んでるものがあるってことくらい、お見通しよっ!」
抗議の声も、問答無用の一刀両断。さらに背後で呻く村人の声まで聞こえてきたとあっては、これ以上クレスに反論の余地などは無かった……。
――そして、さらに後日。
止めに入ってあえなく吹き飛ばされた村人の、その治療費までクレスが払う羽目になっていた。
「うう……治癒魔法かけてやったんだからそれでいいじゃないのよおう……」
「自業自得でしょっ!」
嘆くクレスに。
今日も絶好調に、エナの容赦のない突っ込みが放たれたのだった――――
04.02.05