にゃあお、と小さな声が聞こえた。
思わずあたりを見回したけど、それらしい姿はどこにも見当たらない。
晴れ渡り、青く澄んだ空。
鈍く輝く太陽。数本の背の低い木と花壇と、ベンチがひとつあるだけの小さな公園。普段訪れるのも、のんびり日なたぼっこをするおじいちゃんとか、ベビーカーを引いたお母さんとか、何となく暇つぶしに本を呼んでいる学生さんとかばかりだった。遊具のひとつもないこの場所では、子供達のはしゃぐ声もあまり聞かれない。
ただ、のんびりとした空気だけが流れる場所だった。
何も変わらずゆっくりと、同じような風景だけがくり返される場所。流れゆく時間に取り残されたように、何ひとつ変わらず、変化してゆくことを放棄したかのような空間……。
(……やだな……)
巡った思考に、ふともれるため息。平凡すぎる日常は、変えたいと思っていても、そうそう変わってくれるものでもないんだ。
現実は、厳しいんだと言うけれど。なまぬるく過ぎていくくらいなら、いっそ厳しい方がどんなに良いか。
もう一度ため息をつきながら、視線を落とす。視界に入ったのは、分厚い生地のプリーツスカート。そこから覗くひざ小僧。だらりと投げ出された両足は、けだる気に地面をかかとで引っ掻いていた。
どこに行くの?どこに行きたいの?
歩くことすら面倒くさそうに見える靴。靴擦れが嫌になる黒いローファー。これがまだピカピカと光っていたときには、楽しくてしょうがないように元気に道を歩いていたのに。きっとこの先には、楽しいことばかり待っていると信じていられた。
なのに、今は。
期待していたことなんてなにもやってこなくて、何度もがっかりさせられて。もう期待する事すら面倒くさくなってきている。
(……学校、やめようかな……)
出てくるのはため息ばかりだ。
にゃあお。
ふと、聞こえる高い声。さっきはきっと空耳だろうと思ったけれど……今度もやっぱり、すぐに平坦な空気の流れに書き消えていった。
きっと、空耳。この場所に、これ以上の変化なんてあり得ないんだから。
にゃおん。
「痛っ……!」
ちくりと足に走った痛み。思わず上がった声に消えそうな、小さな声。
慌ててベンチの下を覗くと、小さな真っ白な子猫が私の足首にしがみついていた。
にゃあお。
小さく泣いて、その黒い大きな瞳で私を見上げる。何故か必死にしがみつく小さな身体。
どうしようかとちょっと困って、でもまた引っ掻かれても大変だと、私はそっと子猫を抱き上げた。
片手で持ち上げられるほど、小さく軽い。そっとひざのうえにのせても、ほとんど重さを感じなかった。
みゃあお。
小さく泣いて、見上げる瞳。そっと背中を撫でてやると、子猫はうっとりと瞳を閉じて丸くなる。フワフワとした白い毛が手に心地良い。ゆるやかな太陽の光を受け、ぬくもりを増していった。
「…………」
なんだろう。あったかい。
これは、子猫の体温のせいだろうか。それとも、日ざしが強くなったから?
そっと顔をあげてみるけれど、太陽はさっき見たときとあまり変わらぬ高さで、相変わらずのんびりと光をおくっているだけだ。
同じ様に。
なのに、なぜ。さっきよりも暖かい気がするのだろう。
「…………」
しばらく撫で続けていると、ごろごろと子猫ののどが鳴り出した。
「お前……うちに、来る?」
無意識のうちにこぼれた言葉。言ってしまってから、飼えるだろうかと言う不安にかられた。幸い家は一軒家だけど、両親が許してくれるかどうか。でも連れて帰ってやらないと、この子だってまたひとりぼっちになってしまうかも知れない。
また。変わらない日常が続くだけだ。
(なんか、嫌だな……それ)
この子をひとりぼっちにすることも。変わらない日常も。
なら、どうすればいい?どうしたい?
なら……まずは、両親を説得しなければ。今帰れば、学校をさぼったことがばれてしまうかも知れないけれど。でも、それでも動かずにはいられなくなった。早く帰って、この子にミルクを飲ませてあげたい。猫用のトイレを作ったり、一緒に日なたぼっこをするのも良いだろう。
だから、やらなければならないことがある。
一度駄目だと言われても、諦めるつもりはなかった。
変わらないのなら、変えていくしかない。
子猫を抱いて、立ち上がる。視界に広がる光が眩しい。風に揺れた木々が、応援してくれるかのようにざわめいた。
うん、そうだ。
ただぼけっとしてたって、何も変わりはしないんだから。
立ち上がって、顔をあげて。そして向きを変えて、歩き出す。
歩き慣れた、いつもの道。でもよく見ると毎日表情は違うし、今日はその先にちょっとした試練が待っている。
にゃあお。
腕の中から聞こえる声に、そっと笑みを向けた。
うん、もう大丈夫。
くたびれかけた靴が、元気に地面を踏みならした。
やっと履き慣れてきたローファー。靴擦れだって、治ってきたんだ。
これからどこへだって、歩いていける。
03.08.02